- 午前零時に降る雪は -


家を出発して、もうどれほどの時間が経ったのだろう。
とにかく僕、坂戸斎はようやく矢留に到着した。
もう三月も終わりだというのに、寒さがコートの上から皮膚を刺すようで、
しとしとと降る雨は、木造の駅を随分と侘しく見せる。
待合室。ストーブにかかった薬缶のお茶を紙コップ一杯、冷え切った内臓に流し込む。
僕は外を眺めた。
傘は持ってきていない。迎えに来てもらうにも、伯母さんの家の電話番号も覚えていない。
「どっかにメモっとくんだった。」
無人の待合室に、僕の声が響く。
窓の外は暗く、そこには落ちてきそうなほど厚い雲が流れている。
僕はあきらめてパイプ椅子をひとつ、ストーブの脇に広げた。
後どのくらい経てば、この雨は止むのだろう。
三月二十二日、午後三時二十分、秋田の片田舎での僕の新生活は、こうして、まったくつまらない幕開けをした
「あらまぁ、まさかとは思ったけど、来てみてよかったわ。」
運がいいのか何なのか、伯母さんが駅に現れたのは、雨が止むよりも遥かに早かった。
白い女ものの小袖に身を包む伯母さんは、何というか時代と逆行する美しさを持っていた。
「ありがとうございました。」
叔父さんのだろうか。黒い傘を借りて、相変も変わらずに降り続く雨の下を歩く。
「いいのよ。それにお礼なら李に言って頂戴。駅を見て来いって言ったのは李なんだから。」
李が……、なるほどね。伯母さんに行かせるあたりがなんとも李らしい。
李、真田李は伯母さんの一人娘だ。昔何度かこの矢留を訪ねた際遊んだ記憶があるが、それもだいぶ昔の話。
「大きくなってるんでしょうね。」
「まあ、斎さんだって十分大きなってますよ。李も驚くと思うわ。」
何がおかしかったのか、伯母さんは楽しそうに笑って、そしてすぐ、寂しそうに僕を見た。
「こんなことを私が言うのは差し出がましいのかもしれないけれど、」
続く言葉は僕でもわかった。
伯母さんの顔は見ること出来きなかったけど、それでよかったのかもしれない。
「明菜が、ご迷惑をおかけしました。」
「そんな。迷惑だなんて、母が、」
なんか変な感じだ。
母は何も悪いことはしていない。とっとと死んでしまった父も、何も悪くはない。
もちろん、僕も何もしてはいない。いや、何も出来なかったと言うべきか。
とにもかくにも、誰が悪いとか、もうそんな次元の話ではないのだ。
人が一人死んで、人が一人残された。
そこに、迷惑もくそもない。
「母が、かわいそうですよ。」
「……。そうね、忘れて頂戴。」
頬にあたった雨滴がはじけて、風に乗って消えていった。世界にとって僕も母もきっとこんなにもちっぽけなもので。
そんなのに一憂している自分はたぶんもっとちっぽけで、きっと穴なんかにもぐらなくても、
誰も何も気にしないんだろうなんて思うと、ため息が出た。
白くなる凍てるため息。そうか、寒いんだな。やっぱり。
「寒いわね。早く帰りましょうか。」
その言葉に気遣いを汲み取り、僕は会話を再開させた。
「そうですね。」
雨が、何かを洗って流してくれれば、
「本当に寒い。」
雨が、何かを消して鎮めてくれれば、
「帰りましょうか。」
そんな願いが口をついて出そうなのを、僕は手を温めるふりをして、
耐えるのに必死だった。

伯母さんの家は旅館だ。名は風月下といって、一応、今日からお世話になる。
旅館の一部屋を実質貸しきるのだ。他の部屋からは少し離れたところにある部屋とはいえ、旅館の一室に変わりはない。
話が来たときは特に意識はしなかったが、今考えると迷惑もはなはだしいのかもしれない。
身寄りが突然消失したときは一人で生きていくことも考えたが、
振り返ってみてもあの生活をこれからもあの生活を持続するのは到底無理だろう。
結局、僕は一介の無力な高校生。
独りぼっちになって気づいた自分の両の手は、予想していたよりも遥かにちっぽけだった。
「斎さん、こちらですよ。」
「ああ、はい。」
見たことがある道だ。まだ名残雪がほのかに見られる坂道。細まった階段を横に見て、さらに上ったところ、
建物の歴史なんてまったくわからない僕にも歴史の長さを髣髴とさせる佇まいの大きな建物がぽつりとあった。
見たことがある道は、見たことがある景色に僕を導いた。
そしてその見たことのある景色は、僕にとって新しい景色だった。
それは、懐かしくもあり、それでいて斬新で、そしてそれが僕にはなぜだろう、無性にくやしかった。
「あー!斎!ってかやっぱり!」
思考をぶちぎりにするような甲高い声。
おかげさまですっきりした頭でぼんやりと眺めていた風月下にピントを合わせるが、
何でか当人は見当たらない。
「バッカねー。上よ、う、え。おーい。」
二階あたりから寒くないのか、半袖の女の子が手を振っている。そうか、あれが李なのか。
「まあまあ、李ったら。お客様もお泊りになっているのに。」
伯母さんが苦笑する。
あれが、李か。変わったな。本当に変わった。大きくなった。お互いさまなのは重々承知だがそれでも、
大きくなった。
「寒くないのかい?」
「バッカねー。暖房がんがんに決まってんでしょ。」
「まったく、相変わらずだな。」
その言葉は本当に自然に、何も意図せずに、まるで当然かのように流れ出た。
相変わらず?相変わらずなのか?
……相変わらずなのかもしれない。思わず笑ってしまった。
「な、なに笑ってんのよ。あんたこそ相変わらずワッケわかんないわよ。
第一何でそんな寒いとこにつっ立ってんのよ。とっとと入んなさい。」
見ればおばさんがもう入り口で待っている。子供のころの俺が、そこに駆けていくのが見えた気がした。
そうだな、僕も行こう。
僕は傘をたたんだ。雨はまだ降っていて、空はどんよりと暗く、それでも見上げてみるとやはり、空は高かった。
ちっぽけだな、本当。僕は本当に。でも、
「あ、斎ちょっと待ちなさい。」
でも、
「なんだよ。」
でも僕は、
「お、お帰んなさい。そ、それだけ!」
でも僕は、それでいいやとか、そうも思っているんだよ。
「……ただいま。」
口に出してみる。きっと李には届いていないだろうけれど、恥ずかしいから、それでいい。
僕はここにいるよ。
見えてますか?
母さん。







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